せんべいの歴史調査

せんべい屋が煎餅のことを知らないでどうする!?そんな思いで調べてきました。

■日本に残る煎餅が記されている記事を元に時系列で並べてみました。

735年せんべいが日本に伝わったのは9世紀~11世紀といわれ、中でももっとも有力な説とされているのが正倉院文書の「但馬国正税帖」という文書に「煎餅」と書いて「いりひもち」と読ませていた。
739年このころ中国では「唐六典」に正月七日と三月三日に先祖の霊を祭るためせんべいを食べたと記されている。
804年空海(弘法大師)が唐での修行中に宮廷に招かれ、「せんべい」を食べました。その美味しさに感激し、製法を学び日本に持ち帰る。
863年清和天皇の貞観五年、疫病が流行し、悪霊退散を願ってせんべいが作られという記事も残っている。
934年承平四年、「和名類聚抄」(日本最初の分類別漢和辞典)にせんべいとは、、、という記述あり。そこには小麦粉を油で練り熱を加えて作ったものと記されている。
1591年天正十九年、千利休が書いた「利休百会記」には秀吉が出席した茶会でせんべいが使われたことが書かれている。
※利休の弟子「幸兵衛」が小麦粉と砂糖で作ったせんべいのようなものが評判を呼び師の「千」の字をもらい「千兵衛」となったうわさも。。。
1602年「日葡辞書」(イエズス会の修道士が作った)では米が原料と記されている。
1689年「合類日用料理抄」では、せんべいの作り方に米を使うと説明されている。
1690年「人倫訓蒙図彙」には箸ではさんで直接火にあぶって作る様子が描かれている。このときはコテで押さえたりせず、凸凹の形をしたせんべいを作っていた。それが鬼せんべいと呼ばれるようになった。
1695年元禄年間になると一気に種類が増え、六条せんべい、醒ヶ井せんべい、亀蔵せんべい、高麗せんべい、団十郎せんべい、団蔵せんべい、役者せんべいなど、、、
1712年「和漢三才団会」では、はちみつと小麦粉で作ると説明されている。
1796年草加市にある「万祝儀覚帖」に「煎餅」の文字があり、草加せんべいのもっとも古い記録といわれている。
1830年「嬉遊笑覧」で「塩せんべい」という言葉が登場する。従来の小麦粉で作ったものと区別するために塩せんべいと読んでいたと考えられている。


■関西と関東ではせんべいの認識が違うようです。

関西は関東に比べ気温が暖かいのでもち米を使用したものを作りました。 もち米は寒さに弱く使えませんでした。だから関東ではうるち米を使用して煎餅を作ったそうです。

関西関東
煎餅といえば、、、
・かきもち
・あられ
・うすく延ばして焼いたもの
が連想されます。

※かきもち、あられの原材料はもち米です。
※関東に比べ暖かい気候です。
煎餅といえば、、、
・せんべい
が連想されます。

※せんべいの原材料はうるち米です。
※関西に比べ寒い気候です。


■まとめ

今回調べてみて、やはり中国から伝わったものは間違いなく、当初は平たく延ばした焼き菓子という意味で使われていたと想像します。 それが、戦国時代あたりになって米を原料とするものが登場し、従来の小麦粉で作るものと共存してきたように思います。 当時砂糖は貴重で、小麦粉と砂糖で作るせんべいは大名のお菓子だったと考えられています。 このときまだ「せんべい」といったら小麦粉製のイメージだったと思います。

江戸時代あたりになると物資が豊富になり、米で作ったせんべいの種類が増えます。 「せんべい」のイメージが変わりつつあり、混乱を防ぐため「塩せんべい」と呼ぶようになりました。 このとき醤油せんべいは貴重でした。なぜなら醤油は関西から運んできた下り醤油しかなく、高価だったからです。

並行して関西と関東で別々の道を歩み始めます。 関西では「かきもち・あられ」が作られ、関東では気候の違いによりうるち米を原料とした「塩せんべい」が作られます。 もちろん小麦粉製のせんべいも同じように残っています。
江戸末期になると、草加市付近で醤油せんべいが登場してきたという流れになります。

せんべいの生い立ち

ぼくが調べてきた内容を基に筋書きをまとめてみました。
※間違いがあればご指摘ください。

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